2006年8月20日 (日)

熱い日の記憶

  午後の浜の砂丘に息をひそめて見入っていた。
兄貴が15才、隆ちゃんが13才、僕が10才、つまり昭和20年の夏、僕たち三人の兄弟に焼きついた熱い日の光景だった。

  それは一瞬、何かの目標に向かって飛び交う蜂のように見えた。
眼下の沖には一艘の小さな漁船に、二機の艦載機がたわむるように、まつわり飛び交っていた、それは間違いなく小船を沈める意図のない行為であることはすぐわかった。

  船の近くに落下物を落とし、上がった水柱は小船を木の葉のように右に左にと大きく揺さぶっていた。 その動きは執拗に捕らえた獲物にいつまでもジャレル子猫のようにくり返された。

  僕はフト何かの異変を感じ、身体を起こし顔を後方に向けた・・・その時、身体は反射的に砂丘を転がっていた、「ダッダッダッ、ピシッピシッピシッ」同時だった。

  僕の身体を沈めていた砂跡に一直線に小さく砂が舞い上がった。

  僕の背後から一機の艦載機が機首を下げて突っ込んで来ていたのだ、転がった僕の
砂跡に機銃掃射が砂しぶきを上げた。 

  その後三人がどうしてその場から逃げ去ったか記憶にない。

  しかし、長時間身体の振るえが止まらなかったことだけは鮮明に覚えている。

   このできごとの10日ほど後にラジオ放送は「終戦」を伝えた。

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2006年8月 4日 (金)

あの頃・車いす用トイレ

 「車いす用トイレについて」  
  国際障害者年、この年にはいろんな出来ごとがあった、「二十一世紀の住宅モデルの設計プロジェクト」や「モデル都市構想プロジェクト」などは通常の会議ではほとんど席を共にすることのない異業種の皆さんと言葉を交わし、議論しあった、こうした機会も国際障害者年ならではの体験と言えるだろう。

 そんな体験の一つとして、大手の衛生陶器のメーカーから「車いす用陶器のモデルづくり」という仕事が入ってきた。
 それまでのトイレの陶器や洗面器や浴槽が車いす利用者にとって「使いにくい」と言う視点に立ったメーカーの研究室からの開発協力依頼であった。

製品は一応試作まであがり、結果は喜ばれたが、あれから二十五年、いささかでもトイレの陶器づくりに係ったものとして、また、日々利用している当事者の立場から、現在新製品として空港やデパートといった最も目立つ場所に設置されている陶器に問題を感じずには居れない。

 二十五年の間には多くの新商品も登場し、トイレの陶器に附設される機器も目覚しく変わって行ったことは当然である、しかし、私たちの身体の一部が二十五年間で変形したとも思えない今、基本となっている便器をそのままに、その上に新しい附設機器を付けたせいか、便座が一律に小型化され、使いずらくなった物を多く見うける。

 「人間工学上・・」とはよく聞かされた言葉だったが、その部分がどこに行ったのだろう。

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あの頃・福祉のワーカー

 1974年4月、私は東京・町田市の職員として福祉の、それも障害者福祉のワーカーとなった。  それは施設から社会に出た私の四番目の仕事だった。
 町田市が私に声を掛けてくれたのだ、それは当時町田市の標語となっていた『緑と車いすで歩ける町づくり』の仕事に組み入れる職員だった。
 プロジェクトが「町田市福祉環境整備要綱」を作成し「誰もが使える町づくり」の産声を上げたのが同年10月、ここから福祉の窓口に建築物の青図面を持ち込む設計士の人たちとの「膝詰め交渉」が私の仕事の一つとなっていった。
 条例ではなく要綱だから・・そんな気軽な気持ちからか窓口の話し合いは軽く「市の方向性」から始まったが、やがて「車いす用トイレを○○箇所、入り口の開口は・・、スロープ等等」に至ると笑いも止まり、「そこまでは・・」と渋る業者も初めの頃は出たが、二度目からは「頑固な窓口職員」が・・と設計士が施主を説得したらしく、5年足らずで2,000件を越す青図面を見せていただき、頑固な私の意見を聴いていただいた。
 そして町田では、例え民間アパートであっても玄関ドアをノックできるまでが「公共の場」という認識を広げていった。
 こうして町田で・・いや日本で始めて考えられた「誰もが安心して使える環境」の視点は、実は福祉の要綱として作られ「社会に提起された」形式で生まれた物であり、そこに立ち会った私には「福祉」が持つ社会の役割、「福祉から生まれ、福祉に還る」視点が私の社会生活の基本理念となっていった。 

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あの頃・あの運動

  「町づくり運動」
 1973年、朝日新聞厚生文化事業団は、各地に芽生えた「障害者の町づくり」運動の障害を持つ仲間たちを宮城・仙台市に集めた。
 それは当時の厚生省が仙台市を「福祉のまちづくりモデル都市第1号」に指定したからだった。「車椅子体験旅行と交流集会」と銘うったこの集会の熱い討議は、私がこれまで歩んできた障害者スポーツの世界から一クラス障害の重い仲間たちの「まちづくり運動」へと駆り立てた。
 二回集会から「車いす市民・全国集会」と名を変え、2年に1度全国の各都市に車いす障害者を集めた、それまで家庭から、施設から外へ出る機会の少なかった重度障害者たちである。
 介助者を得て、この集会に集まった参加者たちは口々に公共交通機関の使いずらさ、道路、店、家の問題等身近で困難な体験を語り合ったが、回を重ねるうちに、命、権利、所得保障、就労、年金、自立とテーマを変え熱い議論へと入っていった。
 この集会は24年間に12都市で開かれ、1997年第12回福島集会を「全国自立研究集会」と共催、「全国障害者市民フォーラム」と名称を変え新しい活動体として、自立生活運動の大きな流れに踏み込んでいった。
 朝日新聞厚生文化事業団はこの「まちづくり運動」以前から、重度の障害をもつ仲間たちに「電動タイプライター」「パソコン」等、重度障害者の生活には重要なコミニケーション機器や、「電動車いす」といつた自立生活には欠くことのできない移動機器の普及に先駆け配布した、その結果はわが国の福祉制度づくりに重要な道筋となっていった。

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あの頃・施設生活

    楽しい時間は短い、街で遊んで、さて帰るとなると、時には一時間以上近くかけて坂道を登った、最初は20分位で一休みしていても、長い坂道に人間の体力はすり減らされ、「公共」と言っても私たち車いす障害者には無愛想なバスがエンジン音たかく追い越していくのを無表情に見送る・・・、施設に着くころは5分位で一休(息継ぎ)していた。

  施設には私たち20代の者から、今思い出せる人たちでも50代、いや60代までいたと思う。 一見、施設生活では当然だとされているが、今の私はこの年齢差を「むごい」と感じずにはおれない。

 あの時の50代の仲間は、はしゃぐ20代の私たちをどう見ていただろうか、社会では30年の違いは、親と子の差である、そこには年代を超えた経験の差、社会の貢献度、信用度、当然、収入差等あらゆる物に年齢差は現れている。

  施設生活には、「人間の人生」はない。

 朝起きて夜に横になるまで同好会」といわれる趣味のプログラム以外は全員が同じ日課で生活していた。

 時々聞こえてくる「子どもが生まれた」「お嫁に行った」「大学に入学した」等の情報は、施設を仕事場として働く職員の周辺のできごとだった。 そこには明らかに「仕事を持つ人の人生」と、動きの止まった、箱の中の障害者の「施設の中の人生」があった。

 
 親も身内もいない私に、社会の風を感じさせてくれたのが1963年の東京オリンピックの後のパラリンピックだった。そこに日本選手として参加して初めて知った「障害を持つ外国の仲間たち」。

 私がそうであったように日本選手の多くが病院や施設からの参加であったしかし、外国の仲間達は「みんな社会に生活の場を持っていた」あの衝撃は、「施設の生活もいいものだ」と私なりに青春を謳歌していたはづの自分が、何処かに吹っ飛んでいた。

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2006年5月27日 (土)

四軒目の我が家にチャレンヂ

この四軒目の我が家の話は、一枚の新聞記事のコピーから始まった。

 妻の恵子は、高知県安芸市の生まれであるが、そこに住む恵子の姉、寿美さんからFAXが入った。  「安芸市が、非常に格安な宅地を売り出した」と言うのである。

 先ず一期の宅地は年内(平成17年度)に着工という条件付きであった、何と気の早い・・・と思ったが、地元の業者を使い、地元の木材で・・・という条件を聞けば、どの地方も同じく町おこしに一役、とは当然だろうと思ったのを覚えている。  この地点では、まさか、この身にまで火の粉が・・・とは考えもしなかった。

 私の住むこの家は建てて11年目である。 二階建てで30坪足らずの小さな家であるが、車いす使用者の私にとっては、贅沢なほど住み心地の良い家だと満足している。

 もちろん、家材の一つ一つの選択から、OMソーラーまで設計者の吉田さんと選んで建てた"自慢の家"である、自慢ついでにもう一つ言えば、大きな改造を含め三軒目になる家作りのすべてが、一人の設計者、一人の大工によって作られたことである。

 安芸市も過疎地とあって、Uターン市民への声かけには熱が入っていた。

 二期目の造成地の販売は半年ぐらい後だったと思う、その情報は、東京の安芸市人会のニュース記事の方が、寿美さんのメールより二日くらい早かった。 今度は抽選後、二年の余裕 ? があり、建設業者も選べるとあった。

 「ネェ 抽選だけでも、やってみていい」もともと恵子に甘い私にとって、この辺から思っても見なかった方向にずるずると引き込まれていった。

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2006年4月10日 (月)

オホーツクの旅

   オホーツクを眼下に機内から見下ろす三月初旬の女満別は、まだ雪の中。 

その冬景色は「憧れの北海道の大地」の思いをひたひたと満たしてくれるものがあった。

   通常、私の良く使う空港と言えば、羽田以南が多く、しかもほとんどが九州、時々高知と言ったところだ。

  近年空港に設置された新設「多目的トイレ」には「オストメイト(人口肛門)洗浄設備」が目につくが、女満別空港には設置されていなかった、世界遺産の指定をうけた知床観光を思うと必要ではないだろうか。

   この空港で発見した車いす用駐車スペースには「車いすの人以外駐車してはいけません」としっかり書かれてあったのが印象的だった、これだけわかりやすく端的に書かれた駐車場を見たのは初めてである。

  初日の観光、「博物館・網走監獄」は必見の場所だった。
昭和五十年代まで使用されていた建造物を移築したもので、きわめてリアル。
しかも囚人や看守の蝋人形の表情にギョッとすること数回、丸太木を枕に寝ている囚人の布団から足首がニョッキリ出ていた。

   この博物館はまずバリアフリーであったが車いす使用者には数箇所、危険を感じさせる道路部分があった、毎年の雪と道路は北海道にとって「最も厳しいテーマの一つ」だと説明された。 また、未開の地、開発の担い手として、国道から、獄舎そのもの等囚人が極寒に耐えて作り上げた歴史を、この地に立ってはじめて触れる思いがしました。

   二日目は二時間近く車で揺られた後、紋別に着いた。ここでの体感はタラバ蟹にボタン海老、帆立にホッケの豪快焼きランチ(千五百円)それは東京に住む私には信じられないランチだった。 

    しかし、団体客を迎えるに十分なこの浜辺の食堂は、まだ新しくトイレも別棟、車いす対応の準備は今から・・・という段階、つまりこの段階でしっかりした情報の提供が必要だと強く感じた。

  この浜辺に隣接した遊覧施設の中にある「オホーツクタワー」「流氷砕氷船・ガリンコ号Ⅱ」の見学、体験も今回企画されていた。

 オホーツクタワーは、事務所からタワーまではリフト付バスも運行され、タワー内にはエレベーターから車いす対応トイレまで完備、BF1 の海底階で初めて見た「流氷の妖精クリオネ」は、改めてメガネを取り出して見ても価値ある可愛らしさだった。

  今回の北海道行きの大きな期待の一つに、流氷砕氷船・ガリンコ号体験があった。
   自慢のドリル・スクリュウで流氷をガリガリ砕いて進む・・砕氷船は、残念ながら今年の流氷はすでになく、「青い海割引」の切符で乗船した。  ポストの先端に羽根を休めた鴎とともにゆっくり湾内を回った。

  流氷砕氷船・ガリンコ号体験は、 またの楽しみとなったが、車いすでも人力による乗船は十分可能な確認を体験した。

   広い大地北海道、オホーツクの車いす旅行の大きなポイントには「移動手段の確保」つまり、公共の交通機関はバスであり、車いすでは利用できないものだった。今後の最重要課題と感じた。

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2006年2月15日 (水)

価値観の違い ?

昨日出版社から本(教科書)が送られてきた。

私が書いた文章はわずか二頁余りであるが、出版社は改版ごとに贈呈でおくってくれる。

本自体は四百頁と堂々とした装丁である。介護福祉士養成講座の「障害者福祉論」、編集にはこの分野では著名な大学教授の名が数名並び、執筆者には、またまた名の知れた大学教授から、社会福祉法人の理事長、弁護士、厚生労働省の課長と多彩な面々に彩られた教科書である。

私の手元には出版社の違う(障害者福祉論)社会福祉の本が数冊あり、年表や、基本計画、などの資料としてよく使わせて頂くのであるが、最近どうしても納得行かないものを感じている。

それは、自分が障害をもつ当事者の立場として、ものを見、聞きしているからだと最近わかったのだが、今回頂いた教科書を読んで・・・いや、その段階で止めてはいけないと改めて思い、この部分こそ教科書に残すべきだと・・・せめて、ここに意見を述べてみたい。

障害者福祉の分野ではよく知られた「支援費制度」であるが、この制度は不運の星の元に生まれた・・・といってよいと思う。(もう、今年の四月から制度は変わるから)

制度としては、しっかりとした基本をもち、戦後数ある日本の障害者福祉制度の中で、この制度ほど多くの障害当事者や、障害児を持つ親たちに夢と希望を与えた制度はないだろう。

それは、制度の中に謳われた基本部分から始まった、それまでの福祉制度は、利用者にとって選択余地のない「措置制度」(国が責任をもって、あてがう)であったが、支援費制度では「自己選択」「自己決定」「契約」と、この社会ではおよそ夢のような「本人主体」をはじめて打ち出したのである。

もちろん、「福祉はお願いするもの」の中で生きてきた「制度利用者」は戸惑い、最初は困惑した。  また、障害をもつ当事者の一部には「信じられない事が起こった」感を抱いたものもいた。

これまでの福祉制度では聞いたことのない表現が「必須課目」に登場したからである。

○ 「社会生活力を高めるための支援」                               ○ 「社会資源を活用するための支援」                             ○ 「ピア・カウンセリング」(障害者による当事者相談)

この表現は、それまでの福祉事務所の「△△係」で担当できる枠をはるかに超えた(大げさに言えば、次元の違う)ものを感じさせた。

特に、「ピアカウンセリング」 ※ ピアとは、同じ立場、同じ背景を持つもの、そこには、同じ障害を持つ仲間・いや自分の姿をも想像できるものがあった。

この支援費制度のなかに、上記「必須課目」を主事業とする「市町村障害者生活支援事業」が生まれ、やがて、実施主体として「地域生活支援センター」が市民十五万人に一ヶ所として市町村に設置されていった。

2004年には、全国の支援センターは419団体に広がり、その中には障害当事者によって運営されているセンターが数十に及んでいる。

非営利活動法人として当事者により運営されているセンターには、経験・研修を経た「ピアカウンセラー」が相談業務の一員として活躍しているが、ここには「電動車いす」を使用し、これまで「重度障害者」として、「障害者雇用制度」をもってしても「就職不可能」といわれてきた障害者が多い。

これまでの障害者福祉は、障害者を「福祉サービスの利用者」として位置づけてきたが、制度の利用によっては「サービスを供給する」しかも、当事者としての経験を活かした「利用する側の立場に立ったサービスの質を売る」事業所となっている。

こうした状況は教科書には不向きなのだろうか ? ? 今、地域福祉のサービス現場に、こうして重度障害者が登場(私は当事者として、これこそ《自立生活》と誇らしく思うけれど)して、税金すら払う立場になっている事実が多々あることを・・・

      

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2006年2月11日 (土)

読みましたか、どう感じましたか・・

あれは、06年2月9日の朝日新聞の夕刊でした。

一面のトップに「障害者自立 国が目標値」「脱・施設」鮮明に ー という大見出しでした。

私は、この大見出しを読む多くの読者は、この記事をどう理解するだろうと不安を感じました、「制度が進む」おそらく、この記事の中から「後退」を読み取ることはむつかしいと思ったのです。

私は、子どもの時、九州の炭鉱で生活していた頃、それは、日本のエネルギーが石炭から石油に変わる、まさに激動のさまを直視してきました。つまり、その時企業は、国はどう動いたか・・・私は、その中で事故にあいました。それ以来、車いす生活です。それは日本に「障害者福祉法」が制定されて2年目の春でした。当時から肉親もいなかったため、生活保護を受け、十数年の施設生活。また、貴重なパラリンピック参加も経験しました。

いま、小さな福祉専門学校の講師として、教科書を使わない「障害者福祉論」は、「歴史の中の障害者たち」から始まり、自分の生き様と、その時代をテーマにしています。

「国が目標値」の記事の翌日、つまり、06年2月10日、同じ朝日新聞の一面に「分裂にっぽん 障害ある子 心配募る母  老いたる父母福島の施設へ長男送る決心  自己負担増 一人で生きて行けるのか(東京・高島平団地から)の記事は更に考えさせられました。

私の経歴の一つに「福祉事務所ケースワーカー二十余年」というのがあります。

確かに、東京都では施設用地確保が難しい・・・として、私も、四国の香川県や北海道まで施設入所に同行したことがあります。 その時代は「措置」として、市民には制度の中で選択する権利を放棄させられていた時代でした。

しかし、2003年から始まった障害者の支援費支給制度は、障害者の「自己決定」「自己選択」を明記したものでした。その基本は今年四月から始まる「障害者自立支援法」に引き継がれ、しかも、「脱・施設」の方向性を高らかに謳い上げています。

障害当事者にとって、ここ2年は、わが国始まって以来の多くの障害者、しかも、酸素ボンベを常時必要とするような重度の障害者が雨の中に、また、身体の芯まで凍る雪の中で、時には全国から万を数える仲間たちが、叫び、怒声し、あるいは無言で・・・代々木の中央官庁を取り巻いたのです。 そこには「障害者自立支援法」が用意されていたからです。

障害の軽い障害者は「障害者雇用促進法」の網にかかり、就職できる時代に入りました。  しかし、重度障害者が自立して地域で生活を考えても、家といった環境面から、年金や手当てといった経済面、何よりも身内の説得といった大きな壁、出て行かれては ? と懸念する施設からも希望を無視され、親の承諾を得ないと・・・福祉職員まで渋られては「よし」と決意した脱施設の意欲もすぼみます。

私の今の仕事の一つに「障害者生活支援センター」があります(長崎・佐世保市と福岡・行橋市)。ここに寄せられる声に「施設生活○十年、こんなに反対されていても、是非一度は地域で生活したい、よろしく・・・」これが地域の現状です。

しかし、自立支援法では、重度障害者の自立生活に欠かせない介助の時間が、また、その単価が、そして介助者の資格が「見直し」される・・・という現状です( これからの時代に見直しは、上向きになる可能性をあなたは考えられますか )いま、地域で何とか「自立生活」を維持している重度障害者の中で「自立支援法」を「自殺支援法」になるかも・・・の声すら聞かれます。

       

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2006年2月10日 (金)

今晩は・・・よろしく

我が家の家庭教師(パソコンの先生・安部さん)と女房の話を聞いていると、面白そうなので、僕も「ヤリタイ」と仲間に入れてもらいました。   気の向くままにつづります、まず今回は自己紹介だけにしようと思っています。

私は、イノシシ年で、年齢は、まあそこそこの気分で書くつもりです。

パソコン暦、まる二年と「先生」がいっています。 もともとワープロ族でしたが、女房のパソコン先生の「くちぐるま」に乗ったのが始まりで、入ったのが、講演のレジメづくり、しかもパワーポイントづくり・・・動くレジメの面白さに、凝り性がプラスされて・・・ついにブログの仲間入り、「好きなことを書いていいんだよ」と「今風の勧め方」に乗って、見たまま、聞いたまま、感じたままをモットーに仲間入りをします。 よろしく。  

  

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